人格形成に大きな影響を与えてくれた故郷、明延(あけのべ)!

サラダ館記念日

自慢の町、明延に今でも心ひかれます。

今日のブログは「明延出身」の方に読んでもらいたい。

今はもう無い鉱山町「明延(あけのべ)」

明延出身者は、この「明延」という地名に心惹(ひ)かれるのである。

もちろん、この地名をご存じの方は、極わずか。

その極わずかの人が、心惹かれる地名が「明延」である。

明延鉱山は、その歴史も古く奈良時代には奈良大仏の銅を産出し献上したと文献にも残る。

事実、大仏銅産出場所という切場がありました。

鉱山が隆盛期の頃は、人口も4000人を超えたといいます。

南北3キロメートル、東西200メートルの山の谷にへばりつくように鉱員の長屋社宅が並ぶ。

その狭さをご想像ください。

たとえて言うなら、長崎の軍艦島の4倍程度の広さといえばいいでしょうか。

社長わらしの知人が明延、明延っていうから、どんなところかと見に行ったそうです。

もちろん今は、社宅は取り潰され、昔の面影はありません。

「どこに家があったんや?想像もできんわ!」と帰ってきました。

高々4千人ですが、その狭い山間には、中心部には総合病院、購買会(今でいうスーパー)。

娯楽館(映画館)、鉱山文庫(図書館)、プール、テニスコートが従業員のために造られ、

それ以外にも、電気屋さんが2店舗、パチンコ店が2店舗、飲食店などの個人店もありました。

なんせ4千人ですので、商店もにぎわっていました。

また、鉱山の経営が、三菱でしたので、水、電気代はタダ。

夏にはバス二十数台を連なっての海水浴など懐かしい思い出です。

田舎の山奥に、そこだけは都会の文化が漂っていました。

高度成長期と祭りのあと。

ところが、昭和48年の円高不況による突然の閉山。

町の灯は、一挙に途絶えました。

町にいた人は全員、明延から出ていきました。

町が100から0になりました。

だから余計に、「明延」の言葉に出身者は、心惹かれるのです。

明延のもう一つの自慢「一円電車」

一円電車「くろがね号」

明延のもう一つの自慢は、錫(すず)の産出量日本一。

社会の教科書にも掲載されました。

社会の教科書に、自分の故郷が乗っているなんてすごくないですか。

もちろん今では明延の名は、教科書から消えています。

そうそう、明延には「一円電車」なるものがありました。

元々は、鉱石を積んで明延から製錬所のある神子畑(みこばた)までを結ぶ鉱山列車でした。

その列車を従業員が通勤で使うようになり、また一般の人も乗れるようになりました。

もちろん、この電車で利益を出すことなど考えていない会社は、

乗車の人数を把握するために一人1円にしたといいます。

明延に行くと、いまだに、この車両があります。

ぜひ、乗ってみてください。

天井が低いので、立ったまま乗ることはできません。

座っても座席の間が狭いため、お互いの足と足の間に足を入れなければなりません。

明延人は、それで普通だと思っています。

その狭さが、また懐かしい。

全長5キロの線路ですが、そのほとんどがトンネルの中。

時速も20キロくらいのスピードだったと思います。

今地元では、その一円電車を復活させようと、頑張ってくれているようです。

明延は、昭和62年、まだ有望な鉱脈を残したまま数百年の歴史に幕を閉じました。

明延出身者は皆家族なんですね。

家は、同じような間取りの社宅での生活。

親の給料も同じであるため生活水準ようなもの。

風呂は、共同浴場で皆、裸の付き合い。

一歩外に出ると、わいわいがやがや子供の歓声が響き渡っていました。

数年前、小学校の同窓会。

全国に散らばった同窓生が駆けつけました。

参加していただいた先生方が、口をそろえて言う。

「色んな同窓会に呼ばれるが、明延小学校の同窓会はひと味違う。

 だれが出世したかとか、そんなのことはまるで関係ない。

 飾ることなく参加ができる。

 みんな家族のようで、参加していても楽しくなる」

そうなんです。

それが、明延出身なんです。

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