帝王学にみる、出世するには驕(おご)らず、偉そぶらず、謙虚であれ!

自己啓発

社長わらしの趣味は人間観察。

仕事柄多くの人とお出会いする。

人間観察というと悪趣味なように思うのだが、助かることもある。

「人を見る明」は大切である。

ある都市銀行の支店長専用の車に乗せていただいたときのこと。

乗せていただいたのはいいが、何かをしゃべらないと気まずい。

「運転手さん、この仕事の前は何をなされていたんですか?」

「私は、今は運転手をしているが元はこの銀行の行員でした」

それから、目的地に着くまで、色々と話が弾む。

「今の支店長は、どんな方なんですか?」

「凄く好い人ですよ!きっとあの方は、取締役まで行くでしょう」

「そんなことがわかるのですか?」

「偉くなる人は、私どもに対してまで、おごらず、えらそぶらずの方が多いです」

「私は、今運転手をしていますが、銀行では苦労しましてね。

 そのせいか、人を見るとその方の将来が分かるようになったんです」

「今の支店長は、私どもにまで腰が低くて、よく気が付いて下さいます。
 
 ですから、お客様にこんな事を言っては何ですが、

 あの方との今後のお付き合いをおすすめしますよ!」

何を思っての助言だったのかは知れないが、その後お付き合いは続いた。

そして、数年後、その支店長は、常務にまで上り詰めた。

帝王学とは

そんな時、「帝王学」という学問があることを知る。

「帝王学(ていおうがく)とは、王家や伝統ある家系・家柄などの特別な地位の跡継ぎに対する、

 幼少時から家督を継承するまでの特別教育を指す」とある。

つまり日本的にいえば「家訓」ということか。

家訓は、その家が「続く」ということに意味を成す。

放蕩息子ができれば、家は続かなくなるだろう。

企業も同様である。

どの企業も「不易」(変えてはならないこと)、つまり、柱が必要となる。

帝王学を学ぶなら

「帝王学」には三つの柱がある。

第一の柱は「原理原則を教えてもらう師を持つこと」

第二の柱は「直言してくれる側近をもつこと」

第三の柱は「よき幕賓(ばくひん)をもつこと」

とある。

漢民族の乱世を生きぬく知恵にみる帝王学

「人を見る明」

中国五千年の歴史は、「動乱と革命」の連続であった。

漢民族の英知は、この「動乱と革命」の中から生まれたものに他ならない。

彼らは、どの民族もがそうであるように地位、財産、名誉を求めるし、それを手に入れる努力もする。

しかし、同時にそれらがいかに儚く、空しいものであるかを知っている。

というのは、ひとたび革命が起こればまっさきに殺られるのが、

地位が高く、財産があり、名誉をもつ人間だからである。

そこに漢民族特有の、大きな虚無感が生まれでてくるのであるが、

人間である以上、何かを信じなければ生きてゆけない。

では、いったい、何を信ずればいいのか。

いろいろな歴史の実験をくり返した結果、到達したのは、

「人間は人間を信ずる以外に手はない」という結論だった。

当然、「人を見る明」が乱世を生きぬく知恵として、最も重視されるゆえんである。

では、何を見て決めるのか。

第一に、人相を見る。

要するに福相か、凶相かを判断するのだ。

地位も財産もない一介の書生であっても、福相と見たら、その人間に近づいて先ものを買う。

しかし、いかに地位や財産があっても、凶相だと感じたら敬して遠ざける。

凶運に巻き込まれるのを警戒するのだ。

第二に出処進退の「退」を見る。

人間の心ばえが出る「退」

出処進退の「退」をなぜ見るのか。

それは、人間の心ばえが最も端的に現われるからである。

退くについては、二つの作業をしなければならない。

一つは、退いて後継者を選ぶことである。

当然と言えば当然のことだが、それはどういうことかというと、

その企業において、自分がいなくなっても、仕事が回ってゆく

ようにすることであり、いわば「自分を無にする作業」だ。

しかし、この「己を無にする」ことは、口で言うほど簡単ではない。

もう一つは、仕事に対する執着を断ち切る作業である。

人間は、仕事から離れてみて、自分の生活に仕事が思いのほかに

大きなウエートを占めていたことに気がついて愕然とする。

しかも、すべての仕事というものは、始めなく終わりなきものだ。

種まくもの、咲き出る花を愛でるもの、結実を祝うもの、みな、それぞれのめぐりあわせである。

自分の蒔いた種が実るのを見たいのは人情だが、それは欲が深すぎるというものだ。

そういった、もろもろの雑念を一刀両断しなければならない。

だから、その人間の「退」を仔細に観察してさえいれば、おのずから、人物評価ができるわけである。

社長わらしの大変お世話になった、H社長。

年商6億の企業を、年商800億の企業にして株式上場も果たされた。

先見の明があり、子供のようなところがあり、大変魅力のある人物でした。

僕のような年下の者をつかまえて、夢を語り、相談までして下さった。

でも、晩年は退き際を間違えた。

「功なり名を遂げた」方であったが、最後の「退」で躓(つまず)いてしまった。

つまり、社長職を長男に譲ったのであるが、口出しをするようになる。

長男はそれが嫌で、人前でも親子喧嘩が始まる。

ある日突然、その長男を社長から更迭。

その後、社長を色々代えたが、最後は、持ち株を他社に売却して、経営から手を引かれた。

今は、財産はあるが、寂しい余生を送られているとお聞きする。

あの尊敬できる社長まで、最後まで「己を無にする」ことはできなかったのである。

第三に応対辞令。

つまり言葉のやりとり、態度を観察する。

第四に修己治人。

つまり、徳の人であるかどうかである。

 

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