つい先日、社長わらしは「日本でよかった」と思える経験をする。
あなたはエキスポシティをご存じだろうか?
大阪エキスポランド跡地に一昨年オープンした大型エンターテイメント施設である。
商業施設「ららぽーとエキスポシティ」を中核として、水族館、日本一の高さを誇るシースルーゴンドラ観覧車、映画館(シアター11室)、横にはサッカースタジアムが併設されている。
またそばでは「太陽の塔」の再生事業が行われている。
このエキスポシティに初めて家族と買い物に出かける。
もの凄(すご)い賑(にぎ)わい。車をどこに止めたかわからないような広さの駐車場であるが、ほとんど満車状態。
そんな中買い物を終え、駐車場に向かっていた社長わらし。
「カバンがない!」脇から冷や汗が流れる。
現金、クレジットカード、免許証の入っているセカンドバックが消えた。
この状況を考えるとその時点で、出てくることはあきらめた。
どこで手放したのかまるで記憶にない。
いちるの望みをもって総合案内所へ急行。
「どんなバックですか?」「色は?」「お名前は?」「問い合わせてみますのでしばらくお待ち下さい」待つこと数秒。
「見つかっているようですのでしばらくお待ちください」その言葉で安堵する社長わらし。
「日本ってすごい!日本でよかった」と心から思えた瞬間であった。
どうして日本って「平和で、安全で、潔白」な文化風土なのだろうか。
社長わらしは、その根源は地政学的に島国であること、春夏秋冬の四季があること、その関係で日本人が農耕民族であることだと思っている。
欧米の狩猟牧畜文化と違い、農耕民族である日本人は「一所懸命」に生きてきた。
河川が運んできた土砂が平野をつくり、その土壌は柔らかく、植物の栄養をたっぷりと含んでいる。その泥の中から稲作文化が始まる。
稲作というのはご存じのように、一人の力だけではできない。
田んぼに水を引くのも共同作業だ。
そこに助け合いの精神が育まれる。
その精神が何千年もの時間をかけて、日本人のDNAの中にプログラミングがされているのだと思う。
阪神大震災、東日本大震災、そして今年の北海道地震、豪雨災害と立て続けて災害があったが、略奪が起きたということなどは、日本ではまず無い。
それどころか、救援物資を受け取るにも自然に弱者から優先にと、きちっと列を作る。
ところがつい先日のインドネシア中部のスラウェシ島地震では地震当日に、住民のスーパーで食品の奪略、強奪が起きたという。
この違いは?
同じ島国でありながら、インドネシアは赤道直下の国。
だから一年中真夏で、季節が一つしかない。植物はいつも青々とし、稲はいつ蒔いてもよく、コメは年3回は穫れる。
日本の農業のように時間に追われることもない。
アリとキリギリスの話ではないが、着るものにも心配なく、冬のために貯蓄をしたり、季節の変わり目に備(そな)えたりしなくても生活が出来る。
四季の変化も、風景の変化もないため日本のような季節感に満ちた繊細な文化や文明の生まれる素地がない。
この、ある意味で恵まれていない日本だからこそ、助け合い、共存の文化が生まれたのだと思う。
この話の続きとして、社長わらしが、日本人でよかったと常日頃から思っていることを綴つてみたいと思います。
「大和(やまと)」とは大いなる和の国
その昔、日本人は自分たちの国を「大い」なる「和」の国、大和(やまと)と呼んだ。
和には、調和、温和、平和、和合などの意味が含まれている。
日本人のいう調和とは人と人との関係だけではなく、人と自然、自然と自然の調和が含まれる。その調和の中におのずと感謝の気持ちがはぐくまれる。
山に感謝し、海に感謝し、田畑に感謝する。
祭りは自然に感謝するところから始まる。
町や村の人々が氏神様を中心として共に和する。
争わず談合するのも文化の智慧。同じ神輿をかつぎ、村の同族意識、連帯感、愛郷心が自然に育っていった。
日本人は普段は相手を思いやる「大和言葉」で人と接していた。
しかし、一旦、風雲急を告げる事態には「大和魂」をもって対応するのが大和民族の誇りであったような気がする。
日本人の桜へのあこがれ
弥生の春三月、浮き浮きした気分になるのは社長わらしだけであろうか。
寒い冬を乗り越え、待ちに待った春到来。
「世の中に絶えて桜のなかりせば 人の心はのどけからまし」
と在原業平(ありわらのなりひら)が日本人の桜へのあこがれ、思いを代表してくれている。
それでは、なぜ日本人は桜をこれほど好きなのであろうか。
桜が分かれば日本人がわかるというほど、両者は微妙に結びついて日本文化を形成している。
桜は日本人のやさしく、繊細な心の文化と美意識の神髄といっても過言ではない。
桜の特性が日本人の感性や行動にマッチしているのだろう。
集団性、同時性、一斉の見事さ。
一般に欧米人は、バラ、チューリップなどの自己主張をして豪華絢爛に咲く花を愛す。
つまり個人を重んじる彼らは、単体の美を愛する。
対する日本人は、桜や萩、藤のように全体、集合の美を愛する。
桜の一輪一輪には意味がなく、個を集団の中に没して全体の中に生きがいを感じるところがある。桜の花弁一つだけ手に取っても頼りなく淋しい。
これは日本人の国民性をよく表している。一人の日本人は頼りないが群れを成すとにわかに活気づく。(だから花見には活気づく?)
また、一度に咲き、一度に散る刹那(せつな)の美、つまりそのいさぎよさ。
と同時にそのはかなさ。
そして、長い寒い冬からの目覚めによる浮き浮きした気分の喚起と開放感。
そのなかのなまめかしさ、あでやかさを感じ好きなのだと思う。
「久方(ひさかた)の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」
紀 友則(きのとものり)
やさしい春の日差しをうけて、桜の花があわただしく散っていく、どこの里にもある普通の春の平和な風景である。
何のてらいもない、そのごく単純な平安そのものの風景の中にこそ、日本人の心の美を感じるのは社長わらしだけではないと思います。