弥生の春三月、浮き浮きした気分になるのは社長わらしだけ?
そんなことはないですよね。
厳しい冬の寒さが終わり、待ちに待った桜の季節到来だからですよね。
(今年は新型コロナウィルスの外出自粛で、いつの間にか良い時期は終わってしまっていましたが‥)
「世の中に絶えて桜のなかりせば春(人)の心はのどけからまし」
と、日本人の桜へのあこがれをユーモアたっぷりに歌った在原業平(ありわらのなりひら)がその思いを代表している。
この世の中に、全く桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう。
その意味は、本来春はのどかな季節であるのに、人は桜が咲くのを待ち、散ってしまうのが気になり落ち着きません。
桜があるために人々の心が穏やかでないことを述べて、人の心を騒ぎ立てる力のある桜の素晴らしさを伝えようとしている作品です。
桜は、日本の国花
日本では花と言えば桜を意味し、桜は古代から日本人に最も愛され親しまれた花で、国花、国華とよぶにふさわしい。
それでは、なぜ日本人は桜をこれほどまでに好きなのだろうか。
桜が分かれば日本人か分かると言われるほど、両者は微妙に結びついて日本の文化を形成しているのです。
桜は日本人のやさしく繊細な心の文化と日本美、美意識の神髄!
植物としての桜の特性が日本人の感性や行動によくマッチしているのです。
日本人が桜を好きなワケ
これは次の五つの属性に分類して考えてみることが出来ると思うのです。
1.集団性(同時性.一斉の見事さ)
2.いさぎよさ(一度に咲き、一度に散る.刹那の美)
3.はかなさ(花の命)
4.解放感(長い寒い冬からの目覚め.ウキウキした気分の喚起)
5.なまめかしさ、あでやかさ
どうでしょうか。
それでは、一つ集団性について考えてみます。
一般に欧米人は、バラ、チューリップのよう一な一つ一つの自己を主張して絢爛豪華に咲く花を愛します。
個人、自由を重んずる彼らは、単体の美を愛します。
対する日本人は、桜や萩、藤のように、全体の美、総合の美を愛します。
桜の花の一輪一輪には意味がなく、個を集団の中に没して、社会や国といった公共の集団という、全体の中に生き甲斐を感ずるからなのです。
今回の新型コロナウィルス禍においても、強制されずとも、自粛要請に答えます。
桜の花弁を一つだけ手に取っても頼りなく淋しい。
これは日本人の国民性をよく表わしています。
一人ぽっちの日本人は頼りないが、群れをなすとにわかに活気づく。
桜の下の酒宴になると、人が変わったようにはしゃぎ出すが、一人でいると借りてきた猫のようにおとなしい。
しかし、集団的国民性が、桜の季節になるとパッと花開くのですね。
「大和心とは何か」と問われた国学の大家、本居宣長(もとおりのりなが)も、
「敷鳥の大和心を人問はぱ 朝日に匂ふ山桜花」
日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知り、その麗(うるわ)しさに感動する。
そのような心です。
と答えました。
また生涯全国を旅して雲水の境地を愛した西行法師は、
「願わくは 花の下にて 花死なむ その如月の望月の頃」
とよみました。
「願うことなら春に桜の下で自分の死を全うしないなあ。あえていえば、尊敬するお釈迦様と同じ頃に自分の死を全うしたいものだ」
これが日本人の風流心の共通の願いでもあるようです。
今も昔も日本人は桜が大好きです。
昔から花といえば桜のこととして多くの詩歌が詠まれてきました。
何と、万葉集には四三、古今和歌集には七四も載っています。
同様に、その時期になるとフェイスブックに桜の写真を投稿する人の如何に多いことか。
今も昔も同じなんですね。
百人一首の最秀歌といわれるのは、紀友則(きのとものり)の次の歌があります。
「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」
やわらかい春の日ざしを受けて、桜の花だけがあわただしく散ってゆく。
どうしてなんだろうか。
どこの里にもある普通の春の平和な風景ですね。
何のてらいもない、このごく単純な平安そのものの風景こそ日本人の心を表す、とても日本らしい歌ですね。