NHK「逆転人生」
あきらめるな!
まず、道を開いて扉を開けちゃえ!
不可能っていうのは、工夫すれば、可能になる!
見終わった後、涙があふれていました。
最初の試練「ご不満であれば、他の病院へ行ってください」
2003年2月3日、田中宏明は二番目の命を授かった。
名前は「冬馬(とうま)」
しばらくして、冬馬の異常に気がついた。
近くの病院を受診した。
病院の診断は「水頭症」
脳室に髄液のたまる難病。
「手術で助かるのでしょうか?」
その医師は、経験がないといった。
「ご不満であれば、他の病院へ行ってください」
他の病院を探した。
そして行き当たったのが、小児脳神経外科医「高橋義男」だった。
小樽に住んでいた。
初めての受診。
行った病院は、やけに暗かった。
(こんなところで、大丈夫だろうか?)
受診室に入った。
待っていたのは、高橋義男医師。
普通のおじさんかと思った。
それ以上に驚いたのは、壁一面に張られている患者さんの写真やメッセージだった。
それは、多くの病院で匙(さじ)を投げられた脳性難病の小児を、神業の手術で救ってきたこの医師の勲章に見えた。
この先生にお任せしよう!と田中宏明は思った。
診察の結果、一刻も早く手術をしなければならない状態だった。
そこでさらに難しい選択を迫られた。
手術方法だった。
一つは、シャント手術。
脳に管を埋め込み他に排出する方法だった。
リスクはない代わりに、定期的に何度も管の交換だ必要だった。
もう一つの方法は、内視鏡手術だった。
脳室に穴を開けて、髄液の通り道を造るという手術だった。
失敗のリスクが、非常に高かった。
「どちらにしますか?」
田中は迷った。
最初の試練だった。
「先生、失敗したことは?」
「あります」
「内視鏡手術でお願いします」
その時決断できたのは、先生の部屋に貼ってあった多くの子供たちや親からの写真や手紙だった。
手術が終わった。
高橋義男医師は
「上手くいったよ」
何の後遺症もなく冬馬は家族のもとに帰ってきた。
定期健診で接している間に、田中は高橋医師の凄さを知った。
術後の子供たちとも診察や農業体験、料理体験様々なこと通じて交流を続けていた。
高橋医師は、言った。
子供たちが社会に出るまでが治療だと。
義男医師は、まるで患者の家族全員の十字架を背負う、信念の医師だった。
二度目の試練 ー 義男の転勤!
その義男先生が薬害ヤコブ病訴訟で患者側にたったため、病院を追われた。
結果、難病を抱える子が、病院をたらいまわしにされた。
田中宏明は、許せなかった。
義男医師を復帰させたいと、嘆願活動を行った。
嘆願書は5万通をこえた。
しかし、国は動かなかった。
何か、方法はないのか?
田中は、考えた。
田中は、漫画家になることが夢だった。
24歳のときに漫画新人賞である「ちばてつや賞」を受賞したこともあった。
マンガにできないか。
漫画で、義男先生がここにいるんだよ!と伝えたかった。
その場所は、想像を超えるエネルギーに満ちていた。
漫画の主人公のように見えた。
患者たちのありの姿を読者に伝えたかった。
その主人公は、高橋義男。
北海道・苫小牧に実在するひとりの小児脳神経外科医だった。
患者と患者の家族たちが、どのようにして病と向き合い、
何を選択し、そして社会の中で生きてゆくのか…
そのリアルな「生」の姿を描いた。
多くの愛を持ち
与え
そしてまた愛される
彼が紡いできた愛の軌跡 ― ― ―
田中は、書き上げた本を東京の出版社に持ち込んだ。
地味だといわれた。
脚色を入れないと売れないといわれた。
しかし、事実を曲げたくなかった。
自費出版を決断した。
その本のタイトルは「義男の空」
売れなかったら、リヤカーで駅を回ろうと思った。
逆転人生!君たちは、多くの能力を秘めている!
2011年12月、電話が鳴った。
文化庁からだった。
思いもかけない電話だった。
第15回文化庁メディア芸術祭〔マンガ部門〕の審査委員会推薦作品入選の知らせだった。
「進撃の巨人」などと並び、「義男の空」が選ばれたのだ。
小児脳神経外科医、高橋義男の半生と彼が救ってきた多くの家族とのリアルなドラマを描いた物語。
患者の目線をここまで詳細に描いたところに新鮮味と説得力があると評価された。
「義男の空」は、その後全国の図書館に置かれた。
高橋義男は、その漫画をきっかけに小さな病院に帰ってきた。
漫画を読んで、すがる思いで先生を受診し救われた人がまた出来た。
高橋義男は言います。
「まず道を開いて、扉をあけちゃえ!
不可能っていうのは、色んなことを工夫すれば可能になる。」
今もその病院には、そこに集まった人の想いやお便りが
全国から届いています。